2003年2月8日土曜日

〔再録〕荷風が最後に食べた浅草のお店は?


  荷風が最後に食べた浅草のお店は?    余丁町散人、2003.2.8
「アームチェアー・デテクティブ」という言葉があります。椅子にゆったりと座ったまま現場には出かけないで推理ゲームだけを楽しむという探偵のことで、ネロ・ウルフやポワロなどのちょっと太った連中が多い。推理に必要な材料は手下が集めてくるので十分すぎるほどあり、後は優雅に「灰色の脳細胞」を働かせるだけで見事に真犯人を突き止めるのです。ホームズの小説のあら探しに人生の生き甲斐を見いだすシャーロッキアンもその「アームチェアーに座った探偵」のたぐいですが、永井荷風もこの種の楽しみの対象としてなかなかよろしいと思います。何せ研究書が山とあるので、推理する材料に困ることはありません。今回はこの「アームチェアー推理」を楽しむこととします。テーマは「荷風が浅草で最後に飯を食った店はどこか?」と言うこと。

まず定説から行きましょう。荷風ファンのバイブルである秋庭太郎の『新考永井荷風』によれば昭和34年「荷風はこの年も正月二月の両月、雨の日も雪の日も一日たりとも欠くことなく、三月一日も正午浅草に赴き、アリゾナに於いて朝昼兼帯の食事を済ませて帰る際に発病、店先で転倒、アリゾナ主人の介抱を拒絶して独り遅々として大通りまで歩みタクシーに乗って八幡町の家に帰った。この日が荷風の浅草行きの最後となった」と重々しく書かれています。『日乗』でも「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇い乗りて家にかへる」とあり、以降浅草の名前は出てきませんので、三月一日と言うことはほぼ間違いないところ。問題はお店の名前が書いてないことですが、秋庭太郎氏は緻密さを極めた調査によりそれは「アリゾナ」であると断定されており、それが定説となっているのです。

ところがこの定説に疑問を提起する事件が起こりました。実に映画監督の大御所新藤兼人が平成4年になって発表したものですが、荷風が浅草で最後に食事をしたのは「アリゾナ」ではなく蕎麦屋の「尾張屋本店」ではなかったかという疑問です(『老人読書日記』にも書かれています)。当時荷風を追いかけ回していたアマチュア写真家井沢昭彦氏や尾張屋の女主人の証言にとても現実感があり、荷風ファンの間に大きな衝撃を与えました。それを読んだ荷風研究家の松本哉氏はさっそく写真家の井沢昭彦氏や尾張屋の女主人に会われ、荷風が死ぬ一ヶ月ぐらい前に尾張屋でかしわ南蛮を食べてトイレでしりもちをついたとの重要証言を確認され、(新藤兼人氏は)「アリゾナを必ずしも無視しているわけではないが、尾張屋のトイレに何か真実の匂いを嗅ぎつけているのである」と新藤兼人説を支持されているのです(『永井荷風のひとり暮らし』)。

でも昭和34年の春先の出来事であり、今となっては確かめようがないところです。その後、樋口修吉氏もこの件についてアリゾナの主人に再度インタビューするなど確認されていますが「そんな本家争いのような論争をしても何も生み出さないと悟りきっている」アリゾナ主人の態度を紹介され、結論は出して居られません(「荷風と東京の戦後」(東京人1998/9)。白黒つけるのも野暮という気もいたします。

でも散人が一つどうしても納得がいかなかったことがあります。それが気になって仕方がなかったのですが、それは尾張屋の「かしわ南蛮」の量なのです。一度お食べになったら分かると思いますが、とても上品な盛りつけで、はっきり言って小生には少なかった。大食いの荷風が果たしてこれで満足したのだろうかと言うことです。荷風はアリゾナでは毎日、「タイシチューとグラタン、それにお銚子が一本。これが三ヶ月ぐらい続くと、今度はチキンとレバーの煮込みとカレーライス、そしてビール大瓶」を食べていたのですから(樋口修吉)、かしわ南蛮とは落差がありすぎる。でも荷風がほぼ毎日のように尾張屋でかしわ南蛮を食べていたことは、実際写真まであり、全く間違いのないところです。どう考えればいいのでしょうか。晩年は食が細くなったのかも知れませんが、それでも浅草通いを止めた後も、毎日近所の大衆食堂「大黒家」ではカツ丼と日本酒を食べています(あそこのカツ丼は結構ボリュームあって小生でも食べきれなかったぐらいです)。

アームチェアーに座っていろいろ書物を読みながら考えていたのですが、ある日突然重要な事実に気が付きました。松本哉氏が聞いた尾張屋女将の証言では、荷風は「毎日毎日、夏も冬も、昼過ぎにお見えになった」と述べられている点です。荷風はもっと早く朝昼兼の食事をとっていたのではなかったか? 樋口修吉は、荷風がアリゾナに顔を出すのは毎日11時半頃、時には11時前にやってきたという証言を得ています。アリゾナには昼前、尾張屋には昼過ぎと言うことなのです。荷風は食堂のハシゴをしていたのだ! 新藤兼人は写真家井沢昭彦氏の言として「荷風はアリゾナ食堂にはいる。外で待っているとまもなく出てくる。・・・荷風は逃げるように雷門を過ぎて田原町方面に行く。そして尾張屋に入った」と引用されているではないですか。このとき新藤兼人は荷風がアリゾナに入ったのは一時避難のためだろうとされていますが、そうではなくちゃんと食事をするために入ったと考えれば、すべて説明が付く。

さて昭和34年3月1日の荷風の足どりを再現してみましょう。こういうことじゃないでしょうか。

1)まず正午前(11時半)に荷風はいつも通りアリゾナにはいる。そこで食事をする。
2)食事の後、アリゾナを出る時に転倒。主人の介抱を断り荷風は大通りの方に遅々と歩いてゆく。
3)荷風は依然として遅々とした足どりで、いつも通り雷門から田原町方面に向かい、尾張屋本店にたどり着く。そこでデザートがわりにかしわ南蛮を食べる。
4)かしわ南蛮を食べた後、トイレに入って尻餅。尾張屋主人に助けられる。
5)大通りでタクシーを拾って八幡に帰る。

これでほぼすべての証言と矛盾しないこととなります。アリゾナ主人が荷風に大通りまでは付いては行かなかったが後ろからタクシーに乗るのを見たと証言していることだけが、ちょっと気になる点ですが、主人の記憶違いなのか、或いは荷風はタクシーで尾張屋まで乗り付けたと考えればいいでしょう。

荷風は頑固で執着する性格であり、神社のお神籤を引いても大吉が出るまで何度も引いたといわれています。普通アリゾナで転倒したらそのまま家に帰るものなのでしょうが、いつもの習慣に固執して尾張屋にまわったのでしょう。或いはひっくり返ったまま家に帰れば験が悪いと考えたのかも知れません。とにかく同じ日に二回も連続して無様な格好をさらしたことで、さすがに格好が悪いと思ったのでしょう。それ以来、荷風は二度と浅草には行かず、以後、近所の大黒家で甘いカツ丼を食べることになるのです。

0 件のコメント: